主イエス・キリストの受洗

マタイによる福音書 第3章13~17

2017年1月22日(日)
日本基督教団尾張一宮教会 聖日礼拝説教
矢部節牧師

 洗礼者ヨハネが指し示した「わたしの後から来る方」で「私より優れた方」である主イエス・キリストがヨハネのもとに洗礼を受けに来ます。ヨハネは思いとどまらせようとしますが、主イエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言います。御心に適っていることはすべて行わなければならない。それは、「我々」つまり、主イエスとわたしたちの関係に必要なことなのだというのです。

 主イエスが神の子でありながら、人となられたのは、人間の罪を担って十字架につけられるためであり、死を打ち破って復活されるためです。主イエスは罪のないお方だから、悔い改めの洗礼を受ける必要はありませんが、罪がないからこそ身代わりとなって罪を担うことができます。「我々にふさわしいこと」という言葉には、わたしたちのために十字架への歩みをされることが込められています。それが洗礼であるのは、水に沈めて、そこから上がられることが、死んでよみがえることを象徴しているからです。

 主イエスが洗礼を受けることによって、わたしたちが主イエスの名による洗礼を受けることが、主イエスと共に罪に死んで、主イエスと共に新しく生まれることにあずかることになったのです。

 主イエスが洗礼を受けられたとき、天が主イエスに向かって開きます。アダムとエバの失楽園以降、人間に閉ざされていた天の国への道が主イエスの洗礼によって開かれたのです。

 このときに、聖霊が主イエスに下ります。主イエスが聖霊を御覧になるとともに、その様子を人々は目撃することになります。そして、主イエスを「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う天の声を聞きます。それは神の声であり、主イエスこそが神の御子であることの宣言をわたしたちはここで聞くことになります。主イエスの洗礼を受けられたときが、父、子、聖霊の神が示されたときでもあったのです。

 そして、主イエスが洗礼を受けられたことで、洗礼が新しい意味を持ちました。それまでの悔い改めの洗礼は繰り返し行われましたが、主イエスが洗礼を受けられたことで、主イエスの十字架と復活にあずかる洗礼として一回限りの洗礼となりました。それは、前回の言葉では、「聖霊と火による洗礼」です。

 復活した後、主イエスは弟子たちに「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と言って天に昇られ、わたしたちは、その洗礼を受け継いでいます。主イエスが洗礼を受けられたのは、わたしたちが救いにあずかるためであることを覚え、わたしたちが受け継いでいる洗礼を忘れないように、復活の記念として主の日である日曜日に礼拝をささげ、御言葉の説教と聖餐によって主を覚えるのです。